ミズノアドバイザリースタッフ・田原彰悟インタビュー前編〜選手としての歩みと終点〜

2026年1月の全日本選手権で選手としての現役生活に終止符を打ち、現在は日本代表・篠塚大登のプライベートコーチとして活躍する田原彰悟。2026年4月からミズノアドバイザリースタッフとして新たなキャリアをスタートさせた彼の現在地を、インタビューで紹介する。
前編の今回は、田原の卓球人としての歩みを振り返っていく。
(聞き手・文/卓球王国編集部 小川勇気)
――田原コーチが卓球を始めたきっかけと、初期のキャリアについて教えてください
私は2000年生まれで、いわゆる「女子の黄金世代」(伊藤美誠選手や平野美宇選手、早田ひな選手)と同期になります。出身は千葉県柏市です。卓球を始めたのは小学校4年生の時で、最近の傾向からすると、競技開始時期はかなり遅いほうでした。
私の両親は卓球経験者(父は東山高出身でインターハイ16強、母も専修大出身)でしたが、親から強要されることは一切なく、小学校の低学年までは水泳やサッカー、習字、塾に通う普通の小学生として過ごしていました。
小4の時、近所にあったクラブチームの「マイダス」に通い始め、同年代の仲間と楽しく遊ぶように卓球をする中で魅力に引き込まれ、そこから朝から夜まで練習に打ち込むようになりました。

――小・中学校時代の競技生活や、転機となった出来事についてお聞かせください
小学4・5年の時はホカバ(全日本選手権ホープス・カブ・バンビの部)の県予選で早期敗退しましたが、小学6年の時に千葉県のホープス予選とカデット予選(全日本選手権カデットの部・13歳以下)で優勝。全日本ホープスの本戦ではベスト16に入ることができました。
ところが、小学校6年生の時に「鬼ごっこ」をしていたら転んで、ひざの神経を切る大きな怪我をしてしまい、しばらく卓球から離れることになりました。中学校は強豪の尾久八幡中に進んだものの、ケガの影響や成長期も重なって感覚を完全に失っており、当初は全中(全国中学校大会)でも観客席やベンチ外から応援する状態でした。
そんな中、両親の協力のもと、当時法政大の村井桂さんから週2回ほど個人レッスンをしていただく機会を得ました。村井さんから体重移動など基礎をイチから教わったことで一気に感覚を取り戻し、中学2年の時には全日本カデット(14歳以下)でベスト8、全国中学選抜大会では団体準優勝、中学3年の全中シングルスではベスト16まで勝ち上がることができました。

――高校、大学時代のキャリアや戦績はどのようなものでしたか?
高校は愛工大名電高に進学しました。初めての寮生活に加え、周りが自分よりも格上の選手ばかりだったため、最初は非常に緊張し、同期の田中佑汰選手に敬語で話してしまうほどでした(コレに関しては今でもいじられます笑)。
それでも、高校1年で全日本選手権の愛知県一般予選を通過するなど、結果が出始めると周囲にも認められ、高校3年のインターハイ(全国高校選手権)ではダブルス準優勝、シングルスベスト8という成績を残すことができました。
その後、愛知工業大に進学して卓球漬けの日々を送りましたが、2年ほどヘルニアに悩まされる時期がありました。大学3年まで個人戦の目立った実績がなくて焦っていたのですが、強豪の実業団へ就職したいという一心で必死に練習し、大学3年時には全日学(全日本学生総合選手権・個人の部)でシングルスベスト4、ダブルス優勝という結果をつかみ取ることができました。

――その後は実業団・協和キリンでプレーされましたね。社会人選手としての日々や、引退を決意された理由について教えてください。
大学での実績や監督の推薦もあり、憧れの実業団である協和キリンに入社できました。協和キリンは松平賢二さんをはじめトップ選手が揃う最高の環境でしたが、1年目から3年目の最後まで慢性的な怪我や体調不良に悩まされ、思うようなプレーができない日々が続きました。「世界で勝ちたい」という自身の目標に対して、選手としてそこに到達するのは難しいと客観的に悟り、3年目の全日本予選が終わった翌日に引退を決意してチームに伝えました。

わずか3年で実業団選手としてのキャリアに自ら区切りをつけた田原。そして、彼は次のステップに向けて、思い切った決断を下すことになる。
(後編へ続く)

プロフィール
田原彰悟 たはら・しょうご
2000年9月26日生まれ、千葉県出身。小学4年の時、クラブ「マイダス」で卓球を始める。尾久八幡中、愛工大名電高、愛知工業大卒。実業団の協和キリンで3年プレーしたのち、個人戦の選手としては現役を引退。2026年春から東都観光バスに所属し、日本代表・篠塚大登のプライベートコーチを務める。同年4月より、ミズノとアドバイザリー契約を結んでいる


